カルロス・ゴーン - Carlos Ghosn - vol.1
兵庫三菱Web編集局 | 記事 : A.Yamamoto
配信日 : 2018年7月22日 19時00分 JST
編集局の山本です。
カルロス・ゴーン・ビシャラ。 現在、三菱自動車工業の会長、日産自動車の会長、フランスのルノー会長兼CEOを兼務する、世界的に有名な経営者カルロス・ゴーンのフルネームです。そのゴーンについて、皆さんはどういうイメージを持たれていますか?
日本では、「日産の社長」「世界的な経営者」或いは「コストカッター」といったイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、これらはゴーンのごく一部分を切り取ったものに過ぎません。今回から数回に渡り、ゴーンの生い立ち、どのようなキャリアを積み重ねてきたのか、それらをご紹介していき彼の半生に迫っていきたいと思います。もしかしたら、ゴーンのイメージが180度変わるかもしれませんよ。
偉大な祖父 ビシャラ・ゴーンからの影響
まず、カルロス・ゴーンを語るうえで、祖父であるビシャラ・ゴーンの紹介をする必要があります。カルロス・ゴーンは生前一度も会うことのなかった祖父から、多大なる影響を受けているからです。
「祖父は若い頃に、たったひとりでレバノンからブラジルへ渡りました。まだ13歳だったと聞いています。」
真の開拓者である祖父
ゴーンは、祖父のことを敬意と親しみを込めて語ります。祖父であるビシャラ・ゴーンは20世紀初めに13歳でレバノンを後にし、単身ブラジルへと渡りました。当時のレバノンではイスラム教など宗教上の対立、貧困、多くの争いの火種を抱えていて、ビシャラのように若くして国を出るということは、決して特別な例ではなかったそうです。国を出て、自力で道を切り開き、必死で働く必要がありました。
「祖父は真の開拓者でした。金も教養も学問なく、まだ若いうちからさまざまな困難をひとりで切り抜けなければなりませんでした。そんなリスクに飛んだ冒険を楽しんでいたのです。」
ゼロから、いくつもの会社の経営者に
ビシャラ・ゴーンは、手荷物一つ、話せる言語はアラビア語だけ。そのような状況のなかレバノンのベイルートの港から3ヶ月かけてブラジルへと渡ります。ブラジルでは食べていくためにどんな小さな仕事でもこなし、着々と富を蓄え、経験を積み、自分の道を切り開いていきます。そして、自ら事業を始めることになるのですが、まずは農産物の商売に始まり、次にゴムの取引をする会社を立ち上げます。そこからさらに航空会社の業務拡大のために必要なサービスを提供する会社を作り、手荷物ひとつでブラジルにやってきた若者は、数十年後にはいくつもの会社を経営するまでになりました。
「祖父は私のとってかけがえのない人です。本当に凄い人で今でも驚かされるばかりです。誰からも尊敬され、規律を重んじ、家庭を大事にする人。それが私の祖父像です。子供たちからも慕われていたようで、祖父のことを話す父の優しい顔や、叔父や叔母の愛情あふれる様子を見ただけで、祖父が特別な存在だったことはわかります。」
多くの財産と教えを残した祖父
こうして祖父のビシャラは男4人、女4人の計8人の子供をはじめ、孫たちにも、土地と財産、いくつかの会社を残しました。子供や孫に残したのはそれだけではなく、物事の価値を教え、生きていく上での手本となったのです。のちに、世界的な経営者となるカルロス・ゴーンは、偉大な祖父ビシャラから大きな影響を受けたであろうことは想像に難くありません。
カルロス・ゴーン ブラジルのポルトベーリョで誕生
アマゾン川の流域で育ったカルロス・ゴーン
さて、ここからやっとカルロス・ゴーンの話となります。1954年3月9日、カルロスはブラジル北西部に位置するポルトベーリョで生まれました。ポルトベーリョは雄大な自然に恵まれた街でしたが、気候がとても厳しく、高温多湿で蚊が多く、川は汚く泳ぐことなどもってのほか。そんな街でした。
2歳の時、大事件が勃発
カルロスが2歳の頃、一生を左右する大事件が起こります。誤って井戸の水を飲んでしまったのです。子供はみな煮沸した水を飲む必要があったのですが、お手伝いさんが誤って井戸の水をそのままカルロスに飲ませてしまったのです。カルロスは病気になります。高い熱が続き、生死をさまよい、病状を良くするためにポルトベーリョから気候の良いリオデジャネイロへ移り済みますが完全に体調は戻らず、カルロスが6歳の時に家族は祖国レバノンのベイルートへ移住することを決断します。
レバノンの一貫校コレージュ・ノートルダムへ
6歳の時、レバノンへ移住
こうして、ゴーン一家はレバノン移民伝統といえる生活を送ることになります。つまり、母親と子供は教育環境が整い過ごしやすいレバノンに帰り、父親は生活条件の厳しい外国で働きブラジルとレバノンとを行き来するという生活です。レバノン人家庭の特徴として、子供の教育を何よりも優先させ親はどんな犠牲でも払います。
祖国、レバノンとの絆
ゴーン一家は、レバノンと固い絆で結ばれています。これは、海外に移住したレバノン人には決して珍しいことではなく、レバノンから遠く離れた国へ移住しても、適齢期になるとレバノンに戻り、結婚してまた移住先に帰る人が多かったそうです。ゴーンの祖父ビシャラも、父のジョージも、レバノンで結婚しブラジルにまた戻りました。
「移民たちは誰もがそうしていました。やはり、何か重大な事柄にあたるときには、同じ価値観を持った人が望ましいものです。それが結婚となればなおさらのこと、宗教や家庭感が同じであることは大切なのです。」
コレージュ・ノートルダムという一貫校へ
ゴーンは、6歳から17歳までをレバノンのベイルートで過ごすことになります。小学校から高校はベイルートにある、イエズス会士が運営するコレージュ・ノートルダムという高校までの一貫教育校で学びました。この学校に決めた理由は、両親がキリスト教徒で、フランス語を学べる機会があるため、両親の教育方針と合致したからです。レバノン山間部に暮していたマロン派のキリスト教徒であったゴーンの母親は、フランス語の教育を受け、フランスは第二の祖国であり、大のフランスびいきでした。
「母は大の親仏家で、パリに行くと、たちまち生き生きします。文化に教育に音楽にと、母親がフランスびいきだと、家族も当然そうなります。」
そして、ここでの経験として特筆すべきものとしては、コレージュ・ノートルダムはイエズス会系の学校で、校長はフランス人、教師はレバノン人、シリア人、エジプト人。まさに多国籍企業のような学校。ここでの経験はその後、世界を股にかけ活躍するカルロス・ゴーンへ大きな影響を及ぼしたのではないだろうか。
人生の師ラグロヴォールとの出会い
ラグロヴォール神父からの教え
カルロスは、コレージュ・ノートルダムで人生の師と呼べる人物と出会います。フランス文学を情熱を持って教えるラグロヴォール神父です。カルロスは多感なこの時期に、ラグロヴォール神父をはじめとする教養溢れる素晴らしい教師たちから、大きな影響を受けることになります。
「神父から学んだ中で、最も力強い教えは、人類は人生の最も重要な目標である、という信念でした。まず人の話をよく聞き、それから考えること。自分の考えをできる限り透明性の高い表現で表すこと。シンプルにすること。言ったとおりに行動すること。この信念に我々は皆、深い感銘を受けました。」
歴史・語学に夢中となる
コレージュ・ノートルダムでのゴーンは、数学と物理の成績も悪くはなく、歴史と地理、言語に夢中だったそうです。そのなかでも注目したいのは語学。現在、世界を飛び回り活躍するカルロスは5ヶ国語を自在に操るマルチリンガルです。日本語だけはストレスになっているようですが。コレージュ・ノートルダムではフランス語を完璧に習得。
「初めに話すようになったのは、ポルトガル語でした。レバノンに移り住んだ頃、最もよく使ったのもポルトガル語でした。あとはフランス語が少々と、ほんの片言のアラビア語です・・(中略)・・そのうち言語を学ぶことそのものが面白くなってきました。言語は民族の文化や歴史と結びついているので、言語を学ぶとそういったことまでわかってくるようになるからです。」
フランスへ
カルロスは反抗的な態度を取るなど多少の問題児ではあったものの、成績が良かったので学校側は寛容でした。フランス語とアラビア語をこの学校で習得し、どこの大学に進学することも容易なほど優秀。しかし、将来の志望はラグロヴォール神父の影響か好きな歴史地理学を勉強して教師になるという以外に、特になかったそうです。そこでカルロスは、フランスの理工系最高峰であるHEC(高等商業学校)出身で、パリの銀行で働いている尊敬する従兄弟ラルフ・ジャザールの助けを借り、HECへ入学するための大学予備校に進むことになります。
こうして、カルロスは11年間を過ごしたレバノンのベイルートを旅立ち、パリでの新しい挑戦を始めることになります。
「私は同じ学校で11年間、ほとんど同じ仲間たちと過ごしてきました。この関係は貴重です。どんな地位に就いたのか、どんな物を所有しているのか、ではなく、どんな人間であるか、ということで付き合えるからです。この学校で作られた友人関係は、ほかの何ものにも代えられません。」
パリの大学へ進学するため単身フランスへ
高校卒業後、パリのサン・ルイ校へ
コレージュ・ノートルダム卒業後は、サン・ルイ校というフランスにある大学準備校に進学しました。校長には入学審査後「数学がよくできるのだからHECではなくエコール・デ・ポリテクニークを目指すと良い」と、尊敬する従兄弟ラルフ・ジャザールを通じて勧められたこともあり、ゴーンは、パリでトップの工学系学校であるエコール・デ・ポリテクニークを目指すことにしました。サン・ルイ校での勉強は壮絶です。別名「もぐら」と言われていました。2年間昼間もろくに外出しないで勉強しなければならないほど、課題を課せられるからです。
フランスでは、難関大学に入学するためには、ふつうの大学入試とは異なり、中等教育を卒業し、厳しい選抜の過程を経てようやく入学が許されるという仕組みがあります。なので、その難関大学に入学することはエリート中のエリートであるということが証明されるのです。
サン・ルイ校での苦戦
高校までの成績優秀なゴーンも、サン・ルイ校1年目の初めは、うまくいきませんでいした。フランスとレバノンで学んだ数学の範囲が異なっていたからです。加えて、パリに出てきたばかりで慣れるのに精一杯の状況でしたが、この逆境に立ち向かうために、辛い勉強にしがみついて最終学期にはクラスでトップにまでのぼりつめ、みごとエコール・デ・ポリテクニークに入学することになります。
エコール・デ・ポリテクニークへ入学
エコール・デ・ポリテクニークはナポレオン・ボナパルトによって創設された軍事学校の最高峰でした。卒業後の進路の幅は広く、別の大学に進む人もいれば、産業界に入る人もいるのです。ゴーンが出した選択は、難関大学の一つであるエコール・デ・ミーヌというパリ国立高等炭鉱業学校への入学でした。
エコール・デ・ミーヌへ入学
エコール・デ・ミーヌは、フランス国立高等鉱業学校という名前のとおり、炭鉱業がフランスで盛んだった昔は鉱山専門技師の養成をしていました。しかし現在は、衰退産業なので卒業生は炭坑の底に降りる代わりに技術系の官公庁や大企業のポストに就いています。 もぐら時代から周囲は高級官僚を目指している中、ゴーンは国家公務員になるつもりはなく、エコール・デ・ミーヌ卒業後は経済学の博士課程に進むつもりでいました。 しかし、1978年5月の早朝、一本の電話がきました。 その電話の相手は、フランスのタイヤメーカーミシュランで働いていたヒダルゴという男。 この早朝の出来事がゴーンの人生を変えていくことになっていくのです。このときゴーンは24歳でした。
今回のまとめ
誕生〜学生時代
- 1954年(0歳)ブラジル ポルト・ヴェーリョにて誕生
- 1960年(6歳)レバノンのベイルートへ移住 コレージュ・ノートルダム入学
- 1970年(16歳)コレージュ・ノートルダム卒業
- 1971年(17歳)フランスのパリ サン・ルイ高校入学(大学予備校)
- 1974年(20歳)エコール・デ・ポリテクニーク入学
- 1976年(22歳)エコール・デ・ミーヌ入学
カルロス・ゴーン誕生から24歳までの生い立ちをご紹介してきました。6歳まではブラジルで育ち、17歳までレバノンで教育を受けました。そしてそのあとは大学進学のためフランスのパリへと旅立つことになります。レバノン時代にはすでにフランス語を完璧に習得し、フランス流の教育も受けていました。フランスのパリへ旅立つという決断は自然なものだったのかもしれません。現在の経営者カルロス・ゴーンを形成するにあたり、この時の環境が大きく影響したことは間違いありません。そして、フランスでの大学生活を経て次のステージへと移行するのですが、それはまた次回。