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阪神淡路大震災を知る ー神戸ルミナリエの始まりー

兵庫三菱Web編集局 | 記事 : M.Saito / A.Sato / A.Yamamoto
配信日 : 2018年12月6日 14時00分 JST / 更新日 :2018年12月17日16時30分 JST

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冬の夜を照らす「神戸ルミナリエ」

◆ 2018年は12月7日から開催

今年2018年もこの時期がやってきました。神戸市で毎年12月に開催される「神戸ルミナリエ」。今回で第24回目を迎えます。

ルミナリエとは、約51万個のLED電球が煌めき魅せる、色鮮やかで美しいアーチ構造の巨大な芸術。毎年違ったデザインで、今年のテーマは「共に創ろう、新しい幸せの光を」。神戸ルミナリエには地元の人はもちろん、遠方から来る人も数多く、昨年2017年は10日間で約340万人が訪れました。

今年2018年の開催期間は2018年12月7日(金)〜12月16日(日)の10日間。月〜金の平日は18時、土日は17時からの点灯で、開催場所は旧外国人居留地および東遊園地です。

◆ ルミナリエの意味は「震災犠牲者の鎮魂」

「神戸ルミナリエ」が何故開催されるのか?

神戸ルミナリエの始まりは、1995年12月でした。1995年の年初めに起きた「阪神・淡路大震災」は、深刻な人的被害・物的被害をもたらしました。 そんな震災から約1年後、復興真っ只中の神戸市で、震災の犠牲になったへの慰霊と鎮魂の思いを込め、神戸ルミナリエが初開催されました。

震災で亡くなった人たちに贈った幻想的で美しい光の芸術は、犠牲者だけでなく、残された人の心や傷を負った街にも、夢・希望・勇気・感動...たくさんの前向きな気持ちを与えました。

初開催の後、継続を求める強い声が多く寄せられました。そうして現在、多くの募金と協賛企業が毎年集まり、今年2018年まで途切れることなく続けられているのです。

ルミナリエの歴史の始まり「阪神・淡路大震災」

日本では近年でも東日本大震災、熊本地震などの大きな地震に見舞われ、今後起こると予想される南海トラフはマグニチュード8〜9級の大地震だと想定されます。

阪神・淡路大震災から20年以上が経ち、あの日の出来事を知らない世代も増えてきました。今一度阪神・淡路大震災について、考えてみましょう。

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阪神・淡路大震災後の街(写真提供:神戸市)

◆ 兵庫県南部を襲った大地震

平成7年(1995年)1月17日の5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の大きな地震が発生しました。さらにその影響は、神戸と洲本では震度6、豊岡、彦根、京都では震度5、大阪、姫路、和歌山などでは震度4が観測され、広範囲で多方面にわたるものでした。

この惨劇によって4万3792人が負傷、3人が行方不明、6434人が亡くなるという、深刻な被害をもたらしました。住宅も約10万5000棟が全壊、約14万4000棟が半壊。そのほか道路・鉄道なども甚大な被害を受けました。

被災された人たちの過酷な生活

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学校の体育館を利用した避難所(写真提供:神戸市)

◆ 震災直後は近隣住民が命を救った

地震発生直後は多くの家屋が倒壊し、同時に火災が多発しました。家族や近隣住民は下敷きになった人の救援・救助活動、消火活動を急ぎました。地元の警察や自衛隊だけでは対応しきれなかった人々の命は、近隣住民によって救われました。

◆ 大変な移住生活

家族等の安否確認を行いながら、約32万人の被災者は学校といった1000カ所以上の避難所に避難し、その後は地域住民で積極的なボランティア活動に取り組みました。

しかしながら、避難所での共同生活は、プライバシーがない、雑音でよく眠れない、寒い、トイレやお風呂に行けない、病気、配給される食事だけでは栄養不足...など、身体的にも精神的にも負担の大きいものでした。中には避難所の生活に耐えられず、車中泊の生活に移る人もいました。

震災発生の3日後から建設され始めた応急仮設住宅がおよそ半年後にすべて完成し、約4万6000戸の入居がありました。一方で、阪神・淡路大震災では入居者が本来の居住地に配慮せず割り振られたため、コミュニティが消滅し、孤独死してしまった高齢者も少なくありませんでした。

早期復旧を目指して

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避難所での炊き出し(写真提供:神戸市)

◆ 全国から集まった助っ人たち

全国から多くの救援物資や義援金約1800億円が寄せられ、災害ボランティアは全国から延べ167万人が集まり、被災者への支援を行いました。

ボランティアが駆けつけた当初の主な役割は、食糧・物資配給、高齢者らの安否確認、避難所運営でしたが、仮設住宅への入居が進むに連れ、引越し作業の手伝いや支援が必要な高齢者や障がい者のケアへと変わりました。

一般ボランティアだけでなく、国や自治体からも多くの応援が来ました。警察は延べ約320万人、自衛隊は延べ約190万人、医療救護員は延べ約7万5000人が駆けつけました。

◆ ライフラインは3ヶ月、鉄道は7ヶ月で復興

電気は約4000本の電柱が倒れましたが、震災7日目には倒壊家屋を除いて復旧、ガスは全国から延べ72万人の事業者が復旧にあたり、震災から3ヶ月経たずに完了しました。神戸市ほぼ全域で断水していた水道は3ヶ月後にはほとんど復旧しました。

交通インフラでは、鉄道は7ヶ月で復旧を完了し、同年8月には被災地すべての鉄道が運行を再開しました。一方高速道路では、「阪神高速道路神戸線」の橋脚が635メートルにわたって横倒しになり、すべての復旧までに622日という長い年月がかかりました。

進む復興、2018年現在の姿

地域住民と全国から集まる多くの手助けにより、長い年月をかけ、一歩一歩復興が進められてきました。阪神・淡路大震災から20年、当時の被災地の一部を2018年現在の様子と比較しながらご覧ください。

◆ ポートタワー付近
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被災時のポートタワー付近 (写真提供:神戸市)

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2018年現在のポートタワー付近

波止場にあるポートタワー。被災時は厚いコンクリートの地面がばきばきに割れて崩れており、人が歩くのは危ない状態でした。2018年現在のポートタワー付近は、見晴らしの良い、元の美しい波止場の景色となりました。

◆ そごう神戸店付近
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被災時のそごう神戸店付近(写真提供:人と防災未来センター)

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2018年現在のそごう神戸店付近

JRや阪急の駅近くにあるそごう神戸店。被災時のそごう神戸店を見ても、建物外部に大きな損傷は見当たりません。「さすが大型の百貨店」と感じる一方で、これほどの大きな建物が倒壊したら被害は更に大きくなっていただろうとも考えられます。

また、そごうの隣のNECコンピュータは、建物が少し歪んでおり、窓ガラスも割れているように見えます。高さのある建物の倒壊は二次被害の危険性が高いので、建物の耐震性の重要さがわかります。

◆ 神戸市役所
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被災時の神戸市役所 (写真提供:人と防災未来センター)

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2018年現在の神戸市役所

被災時の神戸市役所は、まるで横に包丁を入れたかのように建物の中央が崩れています。当時の神戸市役所にはガラスが多く使われており、地震によって何枚か割れています。

2018年現在の神戸市役所は、建物のデザインが変わり、窓ガラスの数は少なくなり、建物の高さも低くなっているように見えます。新しくなった建物にはしっかりと震災の教訓が生かされています。

◆ 山陽新幹線
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被災時の山陽新幹線 (写真提供:人と防災未来センター)

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2018年現在の山陽新幹線

被災時の山陽新幹線も2018年現在と同じように高い位置に線路が引かれていたのですが、土台が崩れ落ち線路がむき出しになっています。もしここを電車が走っていたら更に甚大な被害になっていたでしょう。2018年現在は、耐震工事による補強もされ、元の様子に蘇りました。

あの惨劇を次世代にも伝える「モニュメント」

阪神・淡路大震災で、命、暮らし、職、思い出など、様々なものが失われました。

悲しみや苦しさ、不安と闘いながらも、現世を生きる人たちによって、失われたものの存在の証を残し、次世代に震災での思いや教訓を伝えるためのモニュメントが被災地域に数多く建てられました。

今回は、神戸市内のモニュメントを一部ご紹介します。

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人が生きた証を残す「慰霊と復興のモニュメント」

震災の記憶と復興の歩みを忘れず伝えたいという多くの声と募金により、人々に親しみのある東遊園地内にこの「慰霊と復興のモニュメント」が作られました。

外観からまず目に入るのは「黒い石」とそこから滝のように流れる「水」。加えて、壁のように立ち並ぶ「ガラス」や白い正方形タイルの「地面」、赤レンガを敷き詰め更に段状に重ねることでできる段差、周りを囲む木々は、それぞれこのモニュメントのコンセプト「地、太陽、空、水、風、石、ガラス」を表し、自然や生命、時、エネルギーなどを意味します。

地下にある瞑想空間には、震災で亡くなられた方の名前が壁面と中央にある柱に記されています。天井はガラス張りで、外で見た落水と太陽の光が入ってきます。周りを囲む白いコンクリートにはどこか寂しさがありますが、壁にかかった鮮やかな色の千羽鶴から、被災された方を想う暖かな気持ちが感じられます。

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震災の惨状を残す「神戸震災メモリアルパーク」

JR神戸駅より南、メリケンパーク内の海沿いに静かに震災の傷跡を残す「神戸港震災メモリアルパーク」。当時の被害の様子を次世代に伝えるため、実際の波止場の一部を当時のまま残しており、ぱっくりと割れたコンクリートや斜めに曲がった街灯が震災の恐ろしさ・悲惨さを物語っています。また、近くには当時の被災の様子や復興の過程を撮影したパネルも展示されています。

復興後、綺麗に蘇ったことで現在も多くの観光客で賑わうメリケンパークですが、このメモリアルパークに残された震災の爪痕からは、復興のための多くの人の思いと努力を感じます。

「神戸ルミナリエ」は人に何を与えるのか?

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◆ 存続危機を噂される神戸ルミナリエ

「来年はルミナリエやらないかもしれないって。」

家族や友人からしばしば囁かれるこの言葉は、募金や協賛金、補助金などの減少によってルミナリエが資金難である背景から、一体誰が言い始めたのか、毎年言われるものです。

近年は特にそういった声が大きく、実際のところ、開催当初は開催期間が2週間でしたが、2007年からは12日間、2015年からは10日間と、だんだん期間が短縮されてきています。昨年2017年度は約600万円の黒字を出しましたが、一方で2016年度は200万円の赤字、また天候により来場者数や募金額も左右されるため、収入が安定しているとは言い難いものです。

また、近年の開催趣旨には、震災の犠牲者への鎮魂に加え、「神戸地域への集客」も目的として掲げられるようになり、それを疑問視する声もあります。加えて、神戸ルミナリエ開催期間中は混雑を嫌う地元客に敬遠されるなどの理由から、周辺の商店は書き入れ時の年末にもかかわらず売り上げが下がると言います。

このようなことから「次回は開催するのか?」「そもそも開催すべき?」と、様々な声があるのが現状です。

◆ 神戸ルミナリエは震災を語り継ぐ「最大の発信力」

フォトジェニックでクリスマスシーズンにぴったりの巨大イルミネーションですから、集客の効果は高く、それだけに開催趣旨に疑問を持つ方々の意見にも多少うなずけるのですが、裏を返せば、何百万人という幅広い年齢層の人が阪神・淡路大震災を想うきっかけとなるので、数ある神戸市のモニュメントの中でも最も高い発信能力があるものだと言えそうです。

1995年の惨劇から20年以上経った現在、神戸市の算出によると、阪神・淡路大震災を経験していない神戸市民は2013年の段階で全体の4割を超えており、2021年には5割になると考えられています。ますます阪神・淡路大震災を知らない世代が増える中、様々な世代や地域の人が集まるこのような大きなイベントは、「震災を忘れない」というモニュメントの重要な意義を果たしているのではないかと思います。

震災を知らない世代に震災を知るきっかけをくれた「神戸ルミナリエ」

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ここまで阪神・淡路大震災について記事を書かせていただきました私(齊藤)も、阪神・淡路大震災より後に生まれた世代であり、実家の家族や親戚も関西とは離れた場所で生活しています。そのため「阪神・淡路大震災」という言葉は、私にとって小・中学校の歴史の授業ぐらいでしか縁がありませんでした。

このような私があえて、阪神・淡路大震災について書かせていただいたのは、数年前に何気なく見に行った「神戸ルミナリエ」で「阪神・淡路大震災」という言葉に真正面から改めて出会ったことがきっかけでした。そして、実際に神戸に残された惨状の遺物を目にしたり、当時を生きた方々の話を聞いたりして、自分の考えや言葉でその情報を発信したいと思いました。

神戸ルミナリエの光が贈る阪神・淡路大震災の犠牲者への慰霊と鎮魂の思いは、少なからず私のような震災を経験しない世代にも震災の出来事や教訓を伝えています。

阪神・淡路大震災を経験しない世代の1人として、神戸ルミナリエに訪れた時、1人でも多くの人が震災を知り、開催の真意やその思いを知ってほしい、と思います。

参考:

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「神戸ルミナリエ」の現地レポートです。

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